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 明治維新 (1868年) から大正〜昭和〜平成〜令和と150年以上にわたるJ-Pop (歌謡曲、日本の大衆音楽) の歴史を探ろう、というのがテーマです。昔懐かしいヒット曲を年代別 (発売年月 / 流行年代順) に集めて、データベース化しました。勝手なコメントもついています。

流行年月 曲名 歌手・アーティスト ひとこと
1928.02. 出船 藤原義江 藤原義江は1898 (明治31) 年12月5日生まれ。父親はイギリス人で、母親は下関の芸者だった。演劇に憧れて、沢田正二郎の新国劇に参加して戸山英二郎という芸名で活動していたが、大阪で原信子歌劇団の舞台に影響を受け、オペラ歌手に転向。その後、1918〜19 (大正7〜8) 年の浅草オペラ全盛時代に原信子歌劇団の一員として活躍した。
1928.02. 出船の港 藤原義江 「ど〜んと どんと どんと 波のりこぉえぇてぇ〜」で有名な曲。彼は1920 (大正9) 年になると、本格的にオペラの勉強をするためにイタリアへ。その後、ヨーロッパ転々として、ロンドンの喫茶店で日本の民謡を歌っていたとき、後に第45、48〜51代内閣総理大臣を務めることになる吉田茂 (当時はイギリス大使館一等書記官) と出会い、その引き立てによって活動を続け、1923 (大正12) 年に帰国、日本でのリサイタルは大成功を収めた。その後、何度か海外を見て回りつつ勉強に励み、そのノウハウを生かして、帰国後の1934 (昭和9) 年には自分の歌劇団である藤原歌劇団を設立した。この「出船の港」は、もともと1924 (大正14) 年に雑誌「キング」に発表されたもので、当時の曲名は「朝日を浴びて」だった。吹き込みの際、藤原は歌詞の「波のり越して」を「波のり越えて」と間違って歌ってしまい、それがそのままレコードとなって流通し、ヒットしてしまった。その後、1961 (昭和31) 年に北海道の沓掛岬にこの歌詞の碑が建てられることになった時、作詞家の時雨音羽は、原詩ではなく藤原が間違えて歌った「波のり越えて」を刻んだのだった。
1928.04. 鶯の夢 佐藤千夜子
1928.04. 波浮の港 佐藤千夜子
1928.05. マノン・レスコオの唄 佐藤千夜子
1928.06. 椿姫 佐藤千夜子
1928.07. 当世銀座節 佐藤千夜子 作詞は西条八十で、実は彼が流行歌の歌詞を書き始めるターニングポイントとなった曲でもある。彼は「唄を忘れたカナリヤ」で知られる詩人で、フランス留学を終えて帰国したばかり。そんな彼が雑誌「苦楽」に掲載したのがこの「当世銀座節」で、雑誌を読んだ作曲家の中山晋平が感銘を受け、西条八十本人の家まで出向いて曲をつけたいと申し出たという。これが2人の出会いとなり、以後、さまざまなヒット曲を生み出していくことになる。いわば縁結びとなった曲で、大きな話題となった。さらにこの曲は、のちに「東京行進曲」として生まれ変わり、大ヒットを記録することになる。ちなみに、「虎と獅子が酌に出る」という歌詞は、銀座で人気のあったカフェー「タイガー」と「ライオン」を意味している。後者のライオンは、現在でも「銀座ライオン」という人気のあるビヤレストランとして存続している。
1928.07. 波浮の港 藤原義江 オペラ歌手、藤原義江の名声を決定づけたヒット曲。名前だけ見ると女性と思われがちだけど、男性で、この「波浮の港」はアメリカのRCAビクターで録音されている。曲調は「ヤレホンニサ」と囃子言葉が入っているので新民謡に近いが、この言葉は作詞を担当した野口雨情の原詩には存在せず、作曲者の中山晋平が独自につけたものだった。同年4月には佐藤千夜子が歌う盤が先に出ていたが、結果的に知名度はこちらの方が上に。伊豆大島を歌ったもので、このヒットによりそれまで寂れていた大島は一躍観光スポットとして注目を集めることになった。しかし野口雨情は現地へ行かずに歌詞を書いたため、波浮には存在しない鵜が出てきたり、太平洋に面した漁港で西には山があるため夕焼けが見えないといった苦情が現地から寄せられたという (笑)。
1928.07. 鉾をおさめて 藤原義江
1928.09. アラビヤの唄 二村定一
1928.09. 私の青空 (My Blue Heaven) 二村定一
1928.10. ほろほろどり
1928.10. 笑い薬 二村定一
1928.12. ヴォルガの舟唄 二村定一
1928.12. 君恋し 二村定一 日本ビクターの代表取締役だったベンジャミン・ガードナーによるプロデュースが、ヒットの大きな要因だったという。彼は歌詞や曲に細かく注文をつけて、洋楽のポピュラー音楽を下敷きにした新しい曲を作ろうとしていたからだ。今聴き直してみると洋楽らしさは全然感じられないけど、それは現代人が余りに洋楽に慣れ過ぎてしまっているからだと思う。しかし、よく考えるとリズムや金管楽器の使い方など、それまでに余り見られない使い方をしているような気もする。この曲は、後に3番の歌詞を削ってフランク永井がリバイバル・ヒットさせている。
1929.05. 東京行進曲 佐藤千夜子 作詞・西条八十、作曲・中山晋平のコンビで放ったビッグヒットで、日活の無声映画『東京行進曲』の主題歌。「ジャズで踊ってリキュルで更けて」の歌詞が有名で、モボ (モダンボーイ) やモガ (モダンガール) の生活が描かれている。歌詞の4番は当初「長い髪してマルクスボーイ 今日も抱える赤い恋」だったが、マルクスボーイがいけないとされて、変更になった。ちなみに、赤い窓とはコロンタインの小説を指す。モボやモガの時代はおよそ昭和2〜5年頃だったので、流行の半ばを少し過ぎた辺りにリリースされたことになる。
1929.08. 蒲田行進曲 川崎豊、曾我直子
1929.12. 洒落男 二村定一 原曲はアメリカ人の歌手、フランク・クルミットの 「ア・ゲイ・キャバレロ」で、アレンジもかなり忠実に再現している。「俺は村中で一番 モボだといわれた男 うぬぼれのぼせて得意顔 東京は銀座へと来た」で有名なだが、原曲ではリオからやってきた紳士となっており、上手く置き換えている。ただし、最後のオチは原曲では口説いた女の亭主に耳をかじられる衝撃的な内容であるのに対して、二村定一の方は殴られて気絶してしまうという風に異なっている。
1929.12. モン巴里 宝塚花組生徒